2018.05.01

【GW特別編】戦国時代、江戸時代に学ぶプロモーション術

織田信長、坂本龍馬はいかにして人を動かしたのか?

今年2018年は、明治維新から150年の節目です。

そこで今回は、ゴールデンウィーク特別編として、“温故知新”をテーマに、歴史作家で歴史研究家の河合敦さんから「戦国時代、江戸時代のプロモーション術」についてお話を聞きました。

目次

戦国時代編(1467〜1590年)〜織田信長〜

歴史作家・歴史研究家 河合 敦さん
歴史作家・歴史研究家 河合 敦さん。約27年間高校教師を務めたのち、現在は講演会、テレビ、執筆活動など、幅広い分野で活躍する日本史のプロフェッショナル。

インターネットはもちろん、新聞もなかった戦国時代。情報伝達の手段は“口コミ”が中心でした。そのため、いかに早く相手の情勢を掴み、戦略を立てるかが戦況をわけることもあり、「合戦=情報戦」だったと河合さんは言います。

「有名な『関ヶ原の戦い』も情報戦でした。石田三成(西軍)は、大垣城に籠もって徳川家康の東軍を引きつけ、その間、毛利輝元ら(西軍)を大坂城から出馬させ挟み撃ちにしようとしました。これを知った家康は、三成ら西軍を城から引き出し、輝元がやってくる前に得意の野戦で倒そうと考えました。

そして味方を集めて軍議を開くと、『大垣城は攻めず、直接大坂城へ向かう」と宣言したのです。家康は、スパイを通じてこの情報が西軍に伝わることを確信していました。実際、三成は驚き、東軍の進軍を阻止するため、あわてて城から出て、大坂(現・大阪)方面へ向かう途中の“関ヶ原”に陣を敷いたのです。こうして家康は、うまく情報を操作し、まんまと敵を城から追い出したのです。

また、戦国時代は情報と同じくらい、人心掌握も重要でした。なぜなら農民から反発を買えば、大規模な一揆などが起きて領国が崩壊する可能性もあったからです」

ではそんな戦国時代、庶民の心を掴むプロモーション術に長けていたのは、誰だったのでしょうか?

織田信長

「それはやはり、織田信長でしょうね。1581年、いまから400年以上も前に、信長は安土城のライトアップをしているんです。実施したのはお盆の時期。城や堀を、提灯やたいまつで飾り立てました。前代未聞のことに、近隣の人々はそれを見て大いに驚き、感動したことでしょう。また、あるときには、庶民に安土城内を公開したこともありました。しかも信長本人が直接、見学者から拝観料を受け取っているのです。当時の記録によれば、連日行列ができていたとのことです」

行列ができた理由は、「口コミ」によるものでした。

「現代もSNSでの情報拡散を狙ったプロモーションが多く実施されていますが、考え方は近いと思います。織田信長は口コミを、自身のブランディングに利用しました。庶民が『安土城がすごい!』と多くの人に話すことで、それはそのまま『織田信長はすごい!』となることを彼は理解していたんでしょう。当時は口コミが、人々にとって最大の情報源でしたから、まさに戦略家という印象を受けます」

他にも信長は、プロモーションの先駆けのような施策をいくつか講じています。

「たとえば信長は、相撲が好きで、各地で大会を開いています。優勝景品も豪華で、優秀者には屋敷や土地をプレゼントするなどしています。これにより大いに人が集まり、同時に相撲が大流行したのです。これはまるで参加型のプレゼントキャンペーンのような手法ですよね 」

信長は当時から「どうすれば人々の心を掴めるか。行動を起こすことができるか」を熟知していた武将だったようです。

「信長の講じたプロモーションはすべて、当時からすれば、非常にインパクトの大きなものばかりです。現代まで彼が名を馳せている理由のひとつには、そうしたことも影響しているのかもしれません」

江戸時代編(1603〜1868年)〜坂本龍馬、三井高利〜

江戸時代になると瓦版(新聞)が登場し、日本人は情報に対してお金を払うようになります。

「驚くことに当時、庶民向けだけでなく、ビジネス向けの瓦版も存在したのです。たとえば江戸で大地震が起こったとします。すると版元は現地に飛脚を派遣し、刻一刻と変化する被害の状況を把握。それを次々と瓦版にして売りました。なぜなら、江戸で不足した品物を仕入れて売れば、大もうけできるからです。そのため商人たちは瓦版を競って買ったようです。このように江戸時代になると、情報が大きな価値を持つようになりました」

自動車も電車もなかった江戸時代ですが、飛脚によって江戸と大阪間は最短で3日半で情報が伝達されたそうです。ちなみに、ペリーの黒船来航も「翌週には関西圏まで噂が届いていた」といわれています。

「ペリーの黒船来航にはじまる明治維新、その立役者の一人である坂本龍馬も策略家でした。あるとき、龍馬の借りていた蒸気船『いろは丸』が紀州藩の大船と激突し、沈没したことがあります。相手に非があったので龍馬は賠償金の請求を強く求めますが、紀州藩は徳川一族の大藩。交渉に応じようとしません。

そこで龍馬は、土佐の後藤象二郎、薩摩の西郷隆盛、長州の桂小五郎などに死を覚悟した手紙を書きます。龍馬が死んだら倒幕運動に支障が出るので、彼らは全面的に協力を約束。こうして土佐藩が中心となって紀州藩と長崎で『いろは丸』の交渉をしてくれることになりました。

このとき龍馬は長崎の芸者たちに頼み、紀州藩を小馬鹿にするような歌を流行させ、世論を味方につけました。そうした空気作りが功を奏し、龍馬は交渉に勝ち、莫大な賠償金を紀州藩からせしめたのです」

策略家の龍馬は、人間関係をフルに利用するとともに、芸者を現代版のインフルエンサーのように活用することで、交渉に勝利することができました。いつの時代も“多くの味方をつける”ことが成功の鍵であることは変わらないようです。

江戸時代は、商人が活躍した時代でもあります。やはり彼らもプロモーションに長けていました。なかでも三井財閥の三井一族の祖・三井高利(みつい・たかとし)は、新しいビジネスの手法によって新たな顧客を生み出し、商売の在り方を変えた人物でもあります。

「三井は、呉服屋(三井越後屋呉服店:のちの三越)を営んでいました。当時の呉服商人は武家や大店などが顧客で、その屋敷に直接に出向いて商品を販売。代金は年に一度か二度のツケ払いにするかわりに、その間の利子を含めて高めに設定していました。これを“掛け売り”といいます。ところが三井は当時、利子をかけず安く売る代わりに、“店頭販売・現金払い”としたのです」

代金をその場で支払ってもらうことで、代金を回収できない、というリスクを回避している点に三井の商才を感じさせます。

「三井はまた、江戸の庶民が着ている服が古着だったことに着目し、着物の端切れを店頭で販売しました。これが『端切れでも新品がほしい』という顧客のニーズを掴み、大ヒット。新しい顧客層を開拓することに成功したのです。
さらに雨の日には、自店の店名が入った傘を無料で配布するというプロモーションを実施しています。同じような手法は、現代でも見かけることがありますよね。だから三井は現在も“天才商人”と呼ばれ続けているんです」

新しい顧客の創出、傘の無料配布といった“三方よし”の視点は、現代においてもさまざまな形で応用できそうです。

「戦国時代、江戸時代、そして現代においても、人々の心を掴むことなく、成功した人物はいません。だからどんなに時代が変わっても、故(ふる)きを温(たず)ねれば、新しきを知ることができるんです」

戦国時代、江戸時代から脈々と続くプロモーションの歴史。テクノロジーによって手法は変わっても、根本にあるものは、戦国時代から実は変わっていないのかもしれません。

Written by:
BAE編集部